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邑久郡史刊行会(昭和29 年)改訂邑久郡史下巻426-428、作陽書房より転載
現代仮名遣い表記
昔、天安(註、857~859)のなかごろ遁世入道(註、世をすて仏教に帰依した人)が薬師如来の像を背負って土師の巽の方角にある桂山に果て、庵を結んで香をたき花をささげて薬師如来を供養していた。里の人々は「あの非凡なお方はきっと貴族の出であろう」と噂していた。
その後、人王五十代(註、神武天皇を初代として五十代の天皇)光孝天皇の御代、仁和元年(註、885年)京都より聖宝尊師(註、醍醐寺開基高祖弘法大師より四代真言小野流の根本阿遮梨)諸国遍歴の時、たまたまこの地に果て、この国はすぐれた景色であるので伽藍を造りたいと思われた。
宿を借りようとさきの庵を訪ねた尊師に、かの遁世入道は「私は少い時にこの像を背負ってこの地にやってまいりました。この像は智証大師(註、天台宗三井寺の開祖)が彫刻された、とてもありがたいものです。私は長年この山にひとつのお堂をたてて、この像を本尊としてまつりたいと思っていました、けれどもいままでそれもかなわず、いまはすっかり年をとってしまいました。ここの民はいまだ業の障りも多く、私の智力もそれを救うには乏しいものです。しかしいまあなたにお目にかかって、わたしの願いを叶え、人々を救済してくださるかただと思いました」と語りました。尊師はそれにこたえて諸国遍歴を止め、あたりの有力者に相談したところ、みなよろこんでそれにこたえました。
数百人の人々があつまり力をあわせ、道をきりひらき、荊辣を刈り払って本堂をたて、金銀珠玉で宮殿(註、本堂の本尊を安置する殿)を飾り、ついに五間四面の本堂が完成しました。その後は本尊の霊威によって寺は大きく栄え、僧坊は三十を越え、朱の甍、碧の瓦は山門のなかを彩り、そのすがたはまさに浄刹といえるものでした。
その後、寿永年中(註、1182~1184年源平の争いのころ)悪逆の輩が大勢をもって寺の宝を奪い、伽藍に火を放ち、諸堂は灰燼に帰した。翌日の夜、木の上に光るものを住職が見つけた。それは本尊の頭であった。住職はそれを草堂に移し礼拝した。多くの僧たちはみな再建の心を持っていたが、世は荒れ狂っており、悪輩も絶えることがなかったので、ようやくちりぢりになり、ついには荒原となっていった。住職は本尊の頭を抱いて、となりの甲山に隠れ退いた。
その後、仏師を雇い本尊を修善し、建仁二年(註、1202年)ついに梵閣(註、寺のこと)がたち、本尊を安置し甲山寺となづけた。伽藍や僧坊も十数棟建ち、僧侶たちの三密の修行(註、真言宗の修行)旧制三和の行願(註、大小二乗の戒律)は上古を超えるものであった。
大永年中(註、1521~1528年)のある夜、突然雷がなりひびいて本堂僧坊などことごとく焼けてしまった。この時、戒律をきびしく守る性海法師という人がいた。この人「私はずっと佛恩をこうむってきた。いまこそこの命をすてて本尊を救いだす」と菩提心を決めて猛焔に飛びこんで本尊を外に運びだした。この時本尊には焼け焦げたところは一つも見当たらなかった。のち性海法師は草庵を結んで甲山に籠もっていた。
のち天文二年(註、1533年)藤原の朝臣、浦上真人筑後の守。後に入道受戒して正通居士がこのあたりを領知した。この人が四恩報謝(註、国王・父母・衆生・三宝の恩に報い感謝すること)のために財産を出して自己妻子の二世安楽を願い二間四面のお堂と僧坊を建て本尊を迎え入れ、お供えものや灯明・香料のために一田を寄進した。それにより名前を改めて正通寺とした。山号は本尊よりとって医王山とした。
邑久郡史刊行会(昭和29 年)改訂邑久郡史下巻426-428、作陽書房 を現代仮名遣いに改変
正通寺の縁起を挿絵とナレーションで紙芝居風に説明いたします。
代 | 名前 | 備考 |
---|---|---|
第一代 | 祐厳 | |
第二代 | 祐傳 | |
第三代 | 祐泉 | 土師佐藤氏 この時、仁和寺直末となる |
第四代 | 祐誉 | |
第五代 | 祐弁 | 高野山光寿院兼住 |
第六代 | 祐舜 | |
第七代 | 祐典 | この代に客殿庫裏をたてる |
第八代 | 祐授 | |
第九代 | 祐源 | |
第十代 | 祐真 | 境内東中央にたつ宝篋印塔はこの人をたたえる |
第十一代 | 祐篤 | 境内丑寅の石塔はこの人をたたえる |
第十二代 | 祐昭 | |
第十三代 | 祐賢 | |
第十四代 | 祐宣 | |
第十五代 | 祐慈(現住) | 客殿改築 |